お盆休みが終わった8月のある日、雨続きのため園庭で遊ぶことが出来ない幼稚園のこどもたちのために、映画の上映会をすることとなりました。そこで選ばれたのが、手塚治虫のDVD『旧約聖書物語』の中の「天地創造」です。
この『旧約聖書物語』は、当時アニメクリエイターとして名高かった手塚治虫にぜひ聖書入門としてのアニメを作って欲しいとのヴァチカンからの依頼を受けたイタリアの国営放送(RAI)が、日本テレビと共同で、一九八四年に制作を開始したものです。
普段はほとんど行うことのない礼拝堂での上映会ということもあって、始まる前からこどもたちのテンションは高まっていました。中には、「名探偵コナンかな」などと、テレビアニメを期待する声までありました。
ところが始まったのは「天地創造」。しかもこれが、音響をはじめ、凄い迫力なのです。
「天地創造」については、毎年一学期に年少のこどもたちに話すことにしていますので、年少のこどもたちはじめ、他の年齢のこどもたちも当然知っているお話です。
しかしその映画は、わたしには到底真似出来ないような、圧倒的な音響と映像で、神様による天地創造を描いていたのです。そのために年少や年中のこどもの中には、「怖い」と言って泣き出す子さえ出て来ました。
せっかく楽しみにしていたのに、泣きだすなんて可哀想なことをしたかな、などと思っていたのですが、そんなわたしの思いもなんのその、上映が終わった後、年中や年長のこどもたちから、「もっと観たい、もっと観たい」との声が上がり、もう一本別の聖書のお話のDVDを上映した次第です。
そしてまた、その怖かった「天地創造」の映画も、こどもたちの心には深い印象を与えたようです。物語の最後に、アダムとエバのこどもカインが生れる場面が出て来るのですが、怖がっていたはずの年少のこどもが、後にお部屋で、その場面の絵を描こうとしていた、という話を聞きました。
「怖い天地創造」、それはわたし自身も想定外のものでしたが、しかし、手塚治虫は天地創造をそのように解釈し、描いたのです。
なぜ手塚は、天地創造をそのように描いたのだろうか、そんなことを考えながら思い出したのが、あの一九七〇年の大阪万博に出展されていた「三菱未来館」というパビリオンです。
そのパビリオンでは、「動く歩道」に乗って各部屋を観て周る仕掛になっていたのですが、その展示の冒頭、火山の噴火や大嵐など、荒れ狂う自然の様子が周りのスクリーンに大音響で映し出され、当時まだ小学生だったわたしはその迫力に圧倒され、恐ろしささえ感じたのです。
大自然が大きく揺れ動く様子は、小さな人間にとって見るも恐ろしいものであり、その「地の基振るい動く」様に人間は、この天地を造られた神の偉大さと尊厳を感じるのではないか、だから手塚治虫は天地創造を「怖いもの」として描いたのではないか、そしてそこには、神の尊厳だけではなく、命そのものへの尊厳も描かれているのではないか、そんなふうにも思えてきたのです。
この宇宙がどのようにして誕生したのか、その簡単な説明を先日新聞で読みました。宇宙がビッグバンによって広がって行く前、宇宙は素粒子の熱くて濃いスープのような状態であった、それが爆発し拡散し、その後、3億年ほどたって星が生れ、さらにその星が集まって太陽系が出来たのが今から46億年ほど前等々。
残念ながらわたしの頭では、このような説明を聞いて、それが現実にどのような状態をイメージしているのかを理解することは出来ません。
しかしそれよりも問題は、このような科学的な説明には、「いつ頃、なにが、どのようにして」ということへの、現段階における答えはあったとしても、究極的な「なぜ」への答えが無いということです。
「なぜ」この世界が、そして人間の命が創られたのか、それは「なぜ=どのようにして」ではなく、「なぜ=誰が何の目的で」という問いです。そしてそれは、意味への問いなのです。
この宇宙、天地が創られた、そしてそこに生きる命が創られた、そこに意味があるのかないのか、これが、問われなければならない究極的な問いです。
そして、そこに意味があると考えるからこそ、この天地の創造と命の創造への畏怖、そしてその尊厳を重んじる思いが生れて来るのです。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)