「南無阿弥陀仏」を唱えることで往生するという浄土真宗の信仰と、ただ信仰によって神に義とされる(=救われる)というキリスト教の信仰の在り方が似ている、とよく言われます。
しかしとは言いながら、そこには大きな違いもあるのです。それは何かと言いますと、キリスト教ではそこに「イエスの十字架」というものが出て来る、ということです。
イエス・キリストが十字架で死んだ、このことが、キリスト教の救いにおいては決定的な意味を持っているのです。
そこで、この「イエスの十字架の死」の意味について、数回にわたって考えて見ましょう。
十字架刑とは、ローマ帝国がその反乱者に対して用いた処刑の方法です。死刑囚はその手足を十字架に釘付けにされて、数時間から数日間さらされて、ついには窒息死してしまうのです。
イエスの生きた時代には反乱が続きましたので、ガリラヤから都エルサレムに至る街道沿いに、十字架の列ができたと言われています。そしてイエスもまた、その反乱者の一人として、十字架刑に処せられたのです。
では、実際にイエスはローマに対する反乱を企てたのでしょうか。新約聖書を読む限り、どうもそうではないようです。では、イエスは一体何をやったのでしょうか。
イエスがやったこと、それは、当時ユダヤ社会の中で見捨てられていた人々、例えば、病気の人や悪霊に憑りつかれた人、貧しい人や障害を持つ人、そして「罪人」と呼ばれる人のところに行き、これを癒し、助け、一緒に食事をしたということです。
これらの人々は、ユダヤ教の律法(神の戒め)によれば、「汚れた者」であり、そのままでは神様の救いに与ることが出来ないと見做された人たちでした。だから、近寄ることも、触れることも、食事を共にすることも許されなかったのです。
しかしイエスは、たとえそれが神様の戒めであったとしても、これらの人々を救うためにこれを破り、その人々に寄り添い、共に食事をしたのです。なぜならばイエスは、神様がこれらの人々を愛しておられると、信じて疑わなかったからです。
しかしイエスが行ったのは、それだけではありませんでした。イエスは、神の名を使って人々に教えながらも、苦しむ人々を社会から排除し、私腹を肥やす当時のユダヤ教の指導者たちのことを厳しく批判したのです。
例えばイエスは、エルサレム神殿の在り方を強烈に批判しました。なぜならば、その当時の神殿制度は、ユダヤ教の指導者たちに莫大な利益をもたらす集金システムと化していたからです。
イエスによって救われた人々は、イエスのことを「神の子」と崇めました。イエスの言葉と行いに、神の働きを感じたからです。しかし、ユダヤ教の指導者たちにとっては、そのようなイエスの言動は「神への冒涜」であり、同時に脅威でした。
このままイエスを野放しにすれば、自分たちの宗教的、社会的な権威は揺らぎ、人心は離れていってしまう、自分たちの手によるユダヤの統治はままならなくなってしまう、彼らはそのことを恐れ、なんとかしてイエスを殺そうと画策したのです。
勿論ユダヤ人にも、処刑方法はありました。神の戒めである律法を破った者は、「石打の刑」に処することが出来たのです。
しかし、ユダヤ教の指導者が率先してイエスを告発し「石打の刑」にしたのでは、イエスを支持する多くの人々の手前よくありません。そこで彼らが利用しようと考えたのが、ローマ帝国です。
その当時、ユダヤにはローマ総督が派遣されていましたが、このローマ総督は、ユダヤ教の祭司長と深いつながりを持っていました。というのは、祭司長の任命権は、このローマ総督が持っていたからです。総督の息のかかった者が祭司長になれたのです。
また、イエスをリーダーとして反乱が起こるとなると、それは勿論、ローマ総督にとっても問題です。
そこで祭司長とその下にあるユダヤの最高法院、そしてローマ総督は結託して、イエスを反乱者として十字架刑に処すこととしたのだろうと想像されます。(聖書にはそう書いてはいませんが。)
このように見て来ますと、イエスが殺された理由ははっきりしています。それはイエスが、すべての人に注がれている神様の愛を信じ、社会から見捨てられている人々を愛したからです。時に神の戒めを破り、時にユダヤ教の指導者を批判しながら、です。
そうやってイエスは、たとえ自分の身に危険がおよぼうとも、最後の最後までその愛の姿勢を貫いたのです。
そういう意味で、あのイエスの十字架の死の姿には、イエスの信じたすべての人々への神様の愛が表れている、イエス自身の愛が表れている、そう言えるのではないでしょうか。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)