(聖書:エレミヤ20:7,10,マタイ10:24-25,使徒20:22-24)
聖書は「正典」(=「カノン」)とされています。「カノン」とはもともと「物差し」という意味です。つまり聖書とは、「神の正しさ」である「神の法」によって人間を測る物差しなのです。
ところが問題は何かというと、「神の正しさ」を示す「神の法」としての正典が、書かれた文字として人間に与えられた、というそのことです。本来「神の正しさ」は、「神様がわたしにこのように語ってくださった」という、神様と人間の生きた関係の中で、初めて意味を持つものです。
しかし、それが書かれた文字となって、今や人間に与えられたのです。そこでどんなことが起こったのかというと、人間はそれを「今、活きて自分に語りかける神様の言葉」として聞くのではなくて、守るべき「規則」としての「神の法」にしてしまったのです。
そしてそのことから、「神の法」を守ることが出来る「正しい者」(=義人)と、これを守ることが出来ない「罪人」が生み出されました。そしてイエスの生きた時代、その「規則」としての「神の法」を総括していたのが、ユダヤ教だったのです。
書かれた文字としての正典は、人が人を測るための「物差し」となり、規則としての「神の法」となって、人を殺すものになりました。そして、「神の子」と呼ばれたイエスもまた、そのような規則としての「神の法」によって測られ、殺されたのです。
今日のマタイによる福音書において、イエスはこのように語ります。「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」
この「家の主人」とは、イエスのことです。イエスは「ベルゼブル」、つまり「悪霊の頭」と呼ばれていたのです。では、一体誰がイエスのことを「悪霊の頭」と呼んだのでしょうか。それはユダヤ教の人たち、特にその指導者たちでした。彼らはイエスをおとしめたかったのです。なぜならば、それはイエスが、ユダヤ教の指導者たちの持っている、規則としての「神の法」をないがしろにしたからです。
例えばイエスは、安息日に病気で苦しむ人を癒しました。また、「神の法」では触れてはならないとされていた病人に手を伸ばし、これに触れて癒されました。それはイエスが、苦しむ人を救い、孤独な病人に触れてあげることこそが神様の御心だ、と信じていたからです。
そしてイエスは、神様は「正しい人」と共にあるのではなく「罪人」と共にあると信じていました。だからイエスは、病気の人や障がいを持つ人、貧しい人や「罪人」と呼ばれる人といつも共におり、これを愛されたのです。そのためイエスは、これらの人々から「神の子」と呼ばれました。
しかし、「神の法」に照らし、自らを「正しい」と自認するユダヤ教の指導者たちは、そのイエスを「悪霊の頭」と呼び、遂にはこれを十字架につけ、殺してしまったのです。
人間の罪とは何でしょうか。それは、あのエデンの園におけるアダムとエバの堕罪の話に表れているように、人間が神のようになり、善悪を知る者となる、ということです。なぜならば、それによって一人ひとりの人間が自分なりに、これは善、これは悪と考え、それによって自分や他者を裁くようになるからです。そしてその人間の裁きが、この世に「地獄」を生み出すのです。
そう考えると、「神の子」と呼ばれたイエスが殺された、ということは、逆説的だけれども「正しいこと」であり、それこそが神様の御心に適うことであった、と思えます。
なぜならば、もしイエスが「自分は神の子だ、神の正義を持っている」、そのように語って活動した人間だったならば、きっとイエスは悪魔のような裁き人になっていたでしょうから。
しかしイエスは、「正しい人」と呼ばれるよりは、「罪人」と呼ばれる者の側に立ちました。人の上に立って仕えられる者ではなく、人の下に立って仕える者でした。そして、神の正義を振りかざして人を殺すよりは、その正義に殺される人の側に立ったのです。
そして神様は、そのようにして十字架で殺されて行ったイエスを復活させたのです。つまり、殺されたイエスにこそ、「神の正しさ」が表れていることを、神様自身が証しされたのです。
わたしたちは神様の前に、決して「正しい者」ではあり得ません。でも「正しい者」ではあり得ないわたしたちだからこそ、そのわたしたちと共に十字架のイエスがいてくださる、ここに神の愛、神の正しさがあるのです。
(2021年8月8日 甲子園教会礼拝 佐藤成美牧師説教より)