(聖書:イザヤ30:20b-21、マタイ5:17、20、1テモテ4:7b-8)
今日の列王記に出て来るナアマンは、イスラエルに対する戦勝国の将軍として、重い皮膚病を癒してもらいに敗戦国イスラエルへとやって来ます。
戦勝国の将軍が王の推薦状を携えて、わざわざ敗戦国までやって来てやった、はやく出て来て自分を癒せ、というその傲岸不遜な態度に対して、預言者エリシャは迎えにも出ずに、ただ使いの者を送り、ヨルダン川に行って体を洗うことを命じます。
自分が聞き従わせようとしていた神とその預言者に対して、逆にそれに聴き従わなければならない、これはナアマンにとっては初めて経験する立場の逆転でした。だからそれは、ある意味でナアマンにとって、神による「拒絶」であり、「神の沈黙」の経験であった訳です。
そして、このナアマンが体験した神による拒絶、沈黙を同じように経験したのが、今日のマタイ福音書に出て来るカナンの女でした。しかし、イエスによる沈黙と拒絶を経験したこのカナンの女は、ナアマンのように怒ることも、「へこむ」こともせず、このように言うのです。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
つまり、「主よ、あなたの言う事はもっともです。わたしたち異邦人は、神様の救いを受けるには値しない者です。でも、小犬が主人の食卓から落ちるパン屑は食べさせてもらえるように、たとえわたしたちが異邦人であったとしても、ユダヤ人から零れ落ちる『パン屑のような救い』ならば、いただくことは許されるのではないでしょうか」、そう女は言ったのです。
将軍ナアマンのように、「自分の思うように神を動かす」というようなことでは全く無く、「すべてをあなたにおゆだねいたします。やれと言われればその通りにします。あなたのすべてを信頼し、あなたに聞き従います」、これがこのカナンの女の信仰だったのです。
そうやってこのカナンの女は、イエスの沈黙、拒絶に出会いながらも、その沈黙するイエスを信頼し、これに聞き従おうとしたのです。そうやってこのカナンの女は、「神の沈黙」が語る言葉を聞きとり、それに従おうとしたのです
そしてまた、このカナンの女と同様に、「神の沈黙」が語る言葉を聞いたのがパウロでした。
パウロは、自分の身にあるひとつの棘を取り除いて欲しいと神様に願いますが、神様はこれを拒まれます。そうやってパウロは、神様の拒絶とその沈黙に出会ったのです。
しかしその沈黙の中で、パウロは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」との言葉を聞きました。ではパウロは一体どのようにして、その言葉を聞いたのでしょうか。パウロはその「神の沈黙」に何を見たのでしょうか。
「神の沈黙」を前にして、パウロが見たもの、それはあの十字架のイエス・キリストの姿でした。なぜならば、あの十字架のイエス・キリストもまた、神様の沈黙の前に立たれたからです。
あの十字架のうえでイエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。しかしそのようにして、「神の沈黙」にさらされて死んで行ったあの十字架のイエスが、その同じ神様の手によって三日目に復活させられたのです。
そのようにして、神様の力は人の力が尽きた、その弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ、そして、この十字架と復活のイエス・キリストが自分と一緒に立っていてくださるのだ、だからわたしに対する神様の恵みは、すでに充分だ、これが「神の沈黙」を前にして、パウロが出会った言葉だったのです。
わたしたちもまた、信仰の歩みを続ける中で必ず「神の沈黙」に出会わざるを得ない時がやって来ます。しかしその時、その沈黙の中に、自分と共に立っていてくださる方がおられる、自分の信仰の力を超えたところで、しかしキリストはそこにいてくださる、そしてそのキリストは、言葉ではなく、その姿によって、「恐れるな。わたしがここにいる。わたしがあなたと一緒に立っている」、そうわたしたちに語りかけてくださるのです。
あのカナンの女やパウロのように、「神の沈黙」の中にあっても、十字架と復活のイエス・キリストを見上げて、その沈黙の言葉に聞き従う者でありたいのです。
(2021年2月7日 甲子園教会 佐藤成美牧師礼拝説教より)