(聖書:ヨブ1・9ー11、マタイ16:21-24、Ⅰペトロ4:19)
今週の説教題「行く先を知らずして」は、ヘブライ人への手紙の一一章に出て来る言葉です。アブラハムは、神様から召し出され、祝福の約束をいただくと、行く先も知らずにその神様の約束の言葉に従い、すべてを神様に任せて出て行った、というのです。ですからここには、「自分がこうしたい、ああしたい」というアブラハムの主体性はありません。アブラハムは受け身です。
そしてこのアブラハムに見られる受け身の姿勢が、実は今日のマタイ福音書に出て来るイエスの姿にも見られるように、わたしには思えるのです。
今日のマタイ福音書は、「受難予告」のお話ですが、しかし、ここでイエスは受難だけではなく、復活についても語っておられます。「そのときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って…多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」
ここで「復活する」と訳されている言葉は、元のギリシア語では受身形の「起こされる」という言葉です。だから「復活」という言葉を使って言うならば、イエスはここで「わたしは三日目に復活する」と言ったのではなく、「わたしは三日目に復活させられる」と言ったのです。
「わたしは復活する」と言うのと「わたしは復活させられる」と言うのは、非常に大きな違いです。「わたしは復活する」ならば、「わたしは敵に一度は殺されるけれども、その死から復活するのだ」となり、なにやら漫画や映画のヒーローのような話になるわけです。
ところがイエスは、「わたしは十字架で殺される、そして三日目に起こされる」と言ったのです。自分の力で窮地から抜け出すのではなくて、助け出されるというのです。だから非常に頼りなく、弱々しい、メシアらしくない、人に頼りっぱなしで、主体性がない、そんな感じがするわけです。
だからまたイエスの弟子たちも、「三日目に起こされる」と言ったそのイエスの言葉にそれほど心を動かされなかったのでしょう。そしてイスカリオテのユダにいたっては、そのようなイエスの受け身の態度に失望して行くわけです
しかし、ここでイエスは、あえてそのような受け身である自分の姿勢を、弟子たちに明らかにしました。それは一体なぜなのでしょうか。
今日のヨブ記の中で、サタンはこのように語ります。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。」ヨブが神様を信じているのは、神様がヨブ自身と、その一族と、その全財産を守っているからだ、そういう利益がヨブにあるからこそ、ヨブはあなたを信じているのですよ、サタンは神様にそう言ったのです。
そしてこのサタンの問いかけに、まさにその姿を持って答えたのが、イエス・キリストでした。イエスは、「自分のために」「自分の神の子としての名声が高められ、メシアとして人々に崇めるようになるため」に、神様を信じたのではありません。イエス・キリストは、ただ「神様のため」に神様を信じたのです。
だからイエスは受け身だったのです。エルサレムに入って行ったら、自分がこうしよう、ああしよう、というのではなくて、そこで自分はこの自分を神様に任せて、神様が自分に求められることに従って行く、その受け身の姿勢を貫いたのです。そして神様は、すべてを神様にゆだねたイエスによって、その救いの業を成し遂げられたのです。
わたしたち人間は「神様を信じる」ということにおいても、自分のためにこれをしてしまうような罪深い者です。しかしそんなわたしたちのために、神様は御子イエスをその十字架の死へと追いやり、そのイエスを死から起こすことで、わたしたちをその罪から贖い出してくださいました。
だから神様は、今こうおっしゃいます。「あなたは、あなたに備えられたその道を十字架と復活のイエス・キリストと共に歩み続けなさい。それが、『あなた』が『あなた』のためではなく、神である『わたし』のために生きるということなのだ。そうやってあなたは、キリストと共に歩んで行くことによって、あなたの魂をわたしにゆだねなさい」。
「自分の命を救おうとする者はこれを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」このキリストの約束の言葉に押し出されて、わたしたちも行く先を知らずに、キリストと共に新しい命の道を歩み出す者でありたいのです。
(2021年3月7日 甲子園教会 佐藤成美牧師礼拝説教より)