「神」というようなものについて、神学的、或いは哲学的に語るなどということは、わたしの手には余ることです。でも、聖書の神様ということならば、少しは経験を通して書くことが出来るかもしれません。
わたしたちは「神」と言いますと、何か超自然的な、人の運命を操る存在を思い浮かべたりするものです。しかし聖書によれば、人間が勝手に想像し、思い描くものは本当の「神」ではなくて、作り物の神、「偶像の神」ということになります。
では、聖書は神様をどのように描いているのでしょうか。
聖書の冒頭には、神様がその言葉によって天地万物を創造された「天地創造」の物語が出てきます。つまり、聖書の描く神様は、この世界に、そして人間に、言葉によって働きかける方なのです。
だから神様は、今もわたしたちに語りかけています。しかもその語りかけは、全人類に向かって、というようなスケールの大きなものではなく、「わたし」という一人の人間に向かっての、極めて小さな、個人的な語りかけなのです。
そのことをわたしが初めて知らされたのは、洗礼を受けてまだ間もない、二〇代の頃のことでした。
ある日、ベッドに寝転がって聖書をぱらぱらと読んでいた時に、わたしの目に、ローマの信徒への手紙七章一八節にある「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマの信徒への手紙)という言葉が飛び込んで来たのです。
そのときにわたしは「これは、自分について語っている言葉だ」と直感しました。聖書はわたしという人間を知っており、わたしに語りかけているのだ、そう思った時の不思議な感覚を、今でも忘れることは出来ません。
このように、聖書の描く神様は「わたし」という人格に向かって、言葉によって語りかけて来る人格的な存在なのです。神様はいつも、「わたし」という存在そのものに向かい合っている、「わたしにとっての神様」なのです。
ですから、自分自身を置き去りにして、「もし神様が本当にいるのなら、なぜこの世界から戦争がなくならないのか?」とか、「神様がいるならなぜこんなひどい自然災害が起こるのか?」と、問うだけならば、そこに意味はありません。
戦争は人間が起こすものですから、その責任は人間にあります。また、自然は自然としてそこに在る訳ですから、自然が荒れ狂ったとしても、それは自然の摂理です。
ただそこに自分自身が関わってくる時に、話は変わります。その時そこに、「なぜ」という問いが生れて来ます。
戦争は人間が起こすもの、自然には災害が伴うもの、それはそうだとしても、「なぜ」わたしが、そしてあの人が、この人が、それによってこんなひどい目に遭わなければならないのか、です。
この人間の抱える不条理への問いに対して、まさに神様は言葉で答えられるのです。それが聖書の神様というものです。
不条理などとはとても言えない小さな「なぜ」の出来事で、昔ひどく傷心したことがあります。わたしは意気消沈して教会の礼拝に与ったのですが、そこで読まれた聖書の言葉を通してわたしは、「がんばれ、がんばれ」という神様の励ましの声を聞いたような気がしたのです。それはわたしにとっては、確かに神様の語りかけでした。
そのようにして神様は、わたしたちの「なぜ」という問いに対して、聖書の言葉を通して答えてくださるのです。
ですから、神様のことを知りたい「あなた」にもぜひ聖書を読んで欲しいのです。困った時、悩んだ時に読んで欲しいですし、そうでない時にも読んで欲しいのです。聖書を読むということは、「わたし」が神様に「読まれる」ことでもあるのですから。
聖書には、分かりやすいお話もありますし、理解するのが難しいお話もあります。また、「一句の書」とも言われますから、話の全体が分からなくてもその一句が心に残るという場合もあります。
いずれにせよ、聖書を読まなければ、神様との出会いは生まれません。ですから、自分で聖書を読むのが難しい時には、ぜひ教会の礼拝に来て、共に聖書の言葉を聴いてください。
聖書を通して神様と出会い、神様の言葉に生かされるわたしたちでありましょう。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)