2021年4月 神様のことを知りたいあなたへ(2)「罪について」

 昔むかしのこと、クリスチャンの友達がわたしにこう言いました。「キリスト教のことを人に伝えるには、『神』、『罪』、『救い』の順番に話すのが鉄則だ」と。

 勿論、今わたしはそのことに必ずしも同意はいたしませんが、ただこのところ、わたし自身が「罪」ということについて、いろいろと考えているものですから、今回はその友達の言葉に従って、「罪」について書くことにいたします。

 とは言え、「罪とは何か」を書くことは非常に難しいことですし、それを人に説明することも、なかなか難しいのです。

 では、どうやったらわたしたちは「罪」について知ることが出来るのかと言いますと、それは聖書を読む以外にはないのです。

 そこで今日は、新約聖書にある、イエス・キリストについて記した「福音書」に描かれる「罪」について少し書いてみます。

 ただしその前に、まず基本的なこととして理解しておかなければならないのは、聖書で言われる「罪」とは、神様に対する罪だ、ということです。勿論、人間が人間に対して犯す罪もあるのですが、それは、神様がその愛を持って創られた「被造物としての人間」に対する罪であり、つまりはそれも、神様に対する罪だ、ということになる訳です。

 そして神様の前での「罪」ということを考える時に、もうひとつはずすことが出来ないのが、「律法」というものです。

 「律法」とは、「神様の教え」であり、「掟」「戒め」とも呼ばれるものです。これは、旧約聖書の最初の五つの書物(通常、モーセ五書と呼ばれます)に書かれている教えのことで、それをユダヤ教の人たちは、神様から授かった教え、掟、戒めとして、固く守っていた訳です。

 以上のことを踏まえながら、「福音書」を見てみますと、そこでよく目にするのが「罪人」という言葉であることが分かります。

 「罪人」とは一体どのような人たちかというと、前述の律法の規定に適わない人たち、例えば病気の人や障がいを持つ人、悪霊に憑りつかれた人、更には、律法で決められている「安息日」(金曜の日没から土曜の日没には一切の仕事を休み、安息を取れ、という戒め)を守ることが出来ない職業の人たち(例えば「羊飼い」等)、或いはまた、律法を守っていないから穢れている、とされたユダヤ人以外の民族=「異邦人」と接触する仕事についている徴税人などが、「罪人」と呼ばれたのです。

 そしてイエスの時代のユダヤ人は、「穢れ」はうつるものと信じていましたので、「穢れた罪人」、特に病気の人には触れることをせず、また、食事などでも、同席しないことにしていたのです。

 ところがイエスは、そのような「罪人」と呼ばれる人たちと一緒に食事をし、病気の人たちにも手を伸ばして触れ、これを癒されたのです。つまり、イエスにとって、これら「罪人」と呼ばれる人たちは、本当の「罪」を持つ人ではなかった訳です。

 では、一体どういう人たちが本当に罪を持っていたのか、それは、そのような「罪人」と呼ばれる人たちを自分たちのコミュニティーから排除し、自分たちは「穢れ」を取り除いている、更には、神様の教えである律法をきっちり守っている、そのように言って、自分たちこそは、神様の目に適う「正しい者」(義人)だ、と自認している人たちだ、とイエスは言われるのです。

 そうやって聖書は、人間が自分で自分を清め、神様の目に「正しい人間」になり、神様に近づこうとすればするほど、逆にその傲慢さによって、神様から遠ざかって行く、その罪が深まって行く、ということを語っているのです。

 イエスは十字架につけて殺されるのですが、イエスを殺そうとした人たちは、皆律法を守っている「義人」でした。彼らは、イエスが罪人たちと交わりを持っていることを「律法違反」と考え、更には、罪人と交わるイエス自身を「穢れた者」と見做していました。だから、そんなイエスが、ユダヤ社会の中で民衆の人気を獲得し、野放しになっている状態を許せなかったのです。

 そうやって、彼らの求める神の前での「義」=「正しさ」が、イエスを死へと追いやって行きました。

 あのエデンの園で、食べてはいけない「善悪の知識の実」を食べ、罪に堕ちたアダムとエバについて、神様はこう言いました。「今や人は、われわれの一人のように善悪を知る者となった」このように、人が神の一人のようになること、つまり、人間が神になろうとすることこそが罪なのです。

 人間は、神様のように完全な存在ではありません。だから、人間にとっての「完全」とは、神様に造られた「被造物」としての自分が欠けや弱さを抱える存在であり、だからこそ神様の助けを必要としている者であることを、認めることなのです。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)