キリスト教伝道の鉄則は、「神」「罪」「救い」の順番に語ることだという古い友達の言葉に従って、「神」、「罪」と書いて来ましたので、今回は「救い」について書いてみます。
とは言いながら、キリスト教における「救い」を一言で言い表すのはなかなか至難の業なのです。
と言いますのも、キリスト教は、様々な形でイエス・キリストの福音、その救いの業を語り伝えて来たからです。つまり、キリスト教には最初から一つの教義があり、それをずっと語り継いできた、という訳ではないのです。
教会はその始まりの時から、様々に異なるグループに分かれていました。それは、どんな伝道者からキリスト教について教えられたのか、ユダヤ人か他の民族か、またそれぞれの教会が置かれた地域の相違などの理由によるものであり、そのためそれぞれのグループで、少しずつ異なる「救い」の理解があったのです。ですから早い話が、百人いれば百人の異なる「救い」の理解があった、と言っても良いでしょう。
しかし勿論、それぞれの「救い」の理解の土台となった事柄はあった訳です。そして、それが書かれているのが、「使徒言行録」に出てくるペトロの説教の一節なのです。次のような言葉です。
「あなたがたは律法を知らない者の手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」
この言葉は、教会に残されたかなり古い伝承に属するものと考えられていますが、ここで語られていることは、ローマ人の手によって十字架で殺されたイエスは、しかし、神によってその死から復活させられた、ということです。
十字架で殺されたイエスの、神によるその死からの復活、これこそが、キリスト教の「救い」の一番根底にある事柄なのです。
勿論その他にも、教会は「救い」について、色々な言葉を残してきました。曰く、イエス・キリストの十字架の血によって、わたしたちは罪から贖われた(解放された)、十字架と復活のイエス・キリストを通して、神様はいつもわたしたちと共にいてくださる、先立ち導きゆく十字架と復活のイエス・キリストに従って行こう、そこに新しい命がある、わたしたちが悔い改めるより先に、キリストがわたしたちを愛してくださった、弱いわたしたちの内にこそ、十字架のキリストを通して神様の力が宿る等々。
このような、聖書に記された「救い」についての様々な言葉はすべて真実です。なぜならば、それを書いた記者たちが、真実にそのことを自分の救いとして受け取っているからです。
だから大切なことは、このような聖書の言葉を受けとめながら、「あなたにとっての救いとは何か」を求めることなのです。そしてそれを求める時の土台となるのが、十字架のイエスの、神による死からの復活、ということになる訳です。
そこで、イエスの死と復活という事柄について、もう少し深く考えてみましょう。
イエスの十字架の死とは何でしょうか。それは人間イエスの人生が失敗だったことの象徴です。
イエスの宣教の業は、これに反対するユダヤ教の指導者たちによって見事に粉砕されました。イエスに従って来た弟子たちも、これまた見事に師を裏切り、また見捨てました。イエスを支持していた民衆も、期待を裏切られた反動で、「イエスを殺せ」と叫びました。全ては失敗に終わったのです。
そのようにしてイエスはあの十字架で、その持てる力を全て剥ぎ取られたのです。そして「神の子」と呼ばれたその人が、「犯罪人」、「神に呪われた者」と呼ばれて、殺されたのです。
だからイエスの十字架は、その刑の残酷さをも含めて、神無き世界の象徴であり、人間にとっての絶望の象徴でもありました。
しかし、人間的な希望が全く途絶え、死がすべてを飲み込んだそのイエスの十字架の死において、神は働き、その業を為した、というのです。無から有を生み出す神は、イエスの死という、その絶望の中で、そのイエスに新しい命を与え、絶望の中に希望を生み出したのです。
これが、イエスの死と復活が証しする、人の力には全くよらない神による救い、というものです。このイエスに起こった神の出来事を、あなたは信じるか、それがわたしたちに問われていることです。皆さんはそれにどう答えられるでしょうか。
ちなみに、現在のわたしの答えは、こうです。「信じます。信仰の無いわたしをお助けください。」(マルコ九・二四)「救い」を信じるとは、信仰の無い自分を神様に投げ出すことではないのでしょうか。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)