2021年7月 福音のメッセージ「あべこべの福音」

 (聖書:エゼキエル18:30、マタイ3:1-2、5-6、使徒17:30-31)

 旧約聖書においては、長らくその信仰は民族単位のものでした。それは「個人の救い」というよりは、「民族の救い」を信じるものであり、そのためそこにはいつも信仰における共同責任が生じてきたのです。つまり、一人の人が神様に対して犯した罪への裁きをその人の属する部族全体が受けることになるとか、先祖の犯した罪の裁きをその子孫が受けることになる、というようなことが信じられてきたのです。

 しかし時代が下るにつれて、「民族の信仰」よりは「個人の信仰」が強調されるようになりました。すでに預言者エゼキエルにも「個人の信仰」は認められますが、その5~600年ほど後に登場するバプテスマのヨハネは特にそれを強調しました。

 ヨハネはこのように語ります。「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでもアブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

 このようにヨハネは、終末が近いことを語りながら、「自分たちユダヤ民族はアブラハムの末裔であって、神様に選ばれた民としてその救いと祝福を受けることを約束されているのだ」、そんなことを信じていてはだめだ、責任はあなた個人にある、悔い改めにふさわしい実を結ばない木は、皆神様によって切り倒されるのだ、そう語り、個人の悔い改めを強く求めたのです。

 そして、そのような終末における個人の悔い改めの勧めを受け継ぎながら、パウロはこのように語りました。「神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。」

 ここでパウロが語っている話の構造は、基本的にはバプテスマのヨハネと同じです。つまり、神様の裁きの日がやって来る、だからあなたたち一人ひとりは悔い改めなさい、ということです。

 しかしとは言いながら、ヨハネとパウロが語ったことには、決定的な違いがありました。それはパウロが、終末にやってくる「裁き主」は、十字架で死に復活したイエス・キリストだと語った、その点です。

 「悔い改め」は、ギリシア語で「メタノイア」です。「メタ」は「反対に」という意味。「ノイア」は「認識すること」です。ですから、「悔い改め」とは、「反対に認識すること」です。

 では、「反対に認識すること」とは、一体どういうことでしょうか。

 もし「悔い改め」が、「わたしは神様の許に立ち返ります」ということならば、事柄の中心は、「わたし」となります。そうすると「悔い改め」は、「わたしの為す業」になってしまいます。

 しかし今や、十字架と復活のイエス・キリストが「裁き主」として立ってくださったことによって、「悔い改め」の意味は、根本的に変わってしまいました。それまでとは、あべこべになってしまったのです。

 イエス・キリストは、あの十字架において、罪を裁かれた者の姿となられました。それは、その姿において、この罪人である「わたし」のもとに来てくださるためです。そのようにして今や、神様の方が「わたし」のもとに、十字架のイエスを通して来てくださっているのです。

 わたしがわたしの力で悔い改めて、神様の方に向き直るのではなくて、神様の方が十字架のイエス・キリストにおいて、このままの姿のわたしのところに来てくださっている、この「反対」の出来事、あべこべの福音をよく認識して、受け入れること、これがイエス・キリストによる「悔い改め」なのです。  
         
(2021年6月6日 礼拝説教より)