先日、二年半ぶりに開かれたある会に出席しました。その会に出席されておられる方の中には、もう二〇年以上ものお付き合いになる方々がたくさんおられます。
そんな皆さんがお話しくださった近況は、その多くが御自身の、あるいはそのご家族の病気に関わることでした。そしてある方は、御自分の病気のことと共に、この数年でいかに「老い」を感じるようになったかをしみじみと語られました。
そのようなお話を聞きながらわたしも、「確かに皆さん、お年を召されたな」と感じざるを得ませんでした。
人が老いて生きるとは、一体どういうことなのでしょうか。そんなことを考えながら、心に浮かんできたのが、旧約聖書の「コヘレトの言葉」です。
この書物の著者であるコヘレトは、かつてエルサレムの王であった人物、とされています。
コヘレトは、このように語ります。
「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地。」
なぜコヘレトはこのように語るのか、それは彼がその王としての立場を使って、この世のあらゆる快楽を味わいつくしたからだ、というのです。
「『快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう』見よ、それすらも空しかった。」
そして、こう言います。
「わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ」と。
また、「老い」に関わる言葉をこのように語ります。
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。」
このようにコヘレトは、「神様を信じたら、この世の悩みや苦しみは無くなります。老いの憂いも消え去ります」、そんなことを語るのではなく、自分が見極めたありのままの人間とこの世界の姿、そして老いの不条理を語ろうとするのです。
そこで問題は、聖書そのものに帰って来ます。なぜ聖書には「コヘレトの言葉」のような書物が含まれているのでしょうか。こんな書物は、神様の救いを信じようとする者には躓きになるのだから、聖書から除外すべきではないのでしょうか。
それに対する答えは「ノー」です。なぜなら、聖書が徹底して語ろうとしているのは、人間の空しさについてだからです。
イエスは十字架の上でこう叫びました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」このイエスの叫びは、コヘレトの語る「空しさ」に通じるものです。
イエスの生涯も含め、人間の生涯はすべて「空しいもの」なのです。だけれども人間は、その自分の虚無性をなかなか認めようとはしません。だから聖書は、それを無視して傲慢に生きようとする人間の姿を、「罪」と呼ぶのです。
最後にコヘレトは、こう語ります。
「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ』これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも、一切の業を、隠れたこともすべて、裁きの座に引き出されるであろう。」
空しく生きた人間は、最後には神様の裁きの座へと引き出される。つまりそれは、「老い」を含む人間の空しい人生が、神様の前に出て初めて、その意味を与えられる、ということです。
たとえそれが「裁き」であろうが「赦し」であろうが、神様こそが人間にとっての最後の決め手なのです。
(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)