2022年12月 福音のメッセージ「光なき光の子」

(聖書:ミカ1:1-2、ルカ2:11-12、15-18、テトス2:14)

生れたばかりの乳飲み子イエスを取り囲む人々が、その幼子の光に照らされる、そのような西洋絵画は数多く見られます。その幼子から出る光とは、神の栄光の輝きです。

 しかし当たり前のことですが、そのような絵画の表現は単なる比喩であって、本来神様の栄光はわたしたち人間の目には見えないものなのです。

 では、わたしたちの目には見えない神の栄光が、一体どのようにしてわたしたちを支えるというのでしょうか。

 今日のミカ書の言葉は、いわゆるメシア預言です。しかしでは、そのメシアはいつ登場するのか、そのことについて、預言者はこう語ります。「主は彼らを捨て置かれる、産婦が子を産むときまで」。「産婦が子を産む」とは、イスラエルの苦しみが終わるまで、ということです。この預言が語られた時、イスラエルの民は亡国と捕囚の危機に立たされていたのです。だけれども、それは「産みの苦しみ」であって、その苦しみが終わる時、喜びが訪れる、その時メシアが現れ、散らされたイスラエルの民は再び集められる、というのです。

そのようにして預言者は、目に見える厳しい現実の中に、それでも神の約束の言葉が立っており、その言葉を通して神の栄光が一筋の希望の光として射し込んでいる、というのです。

このようなミカ書の預言の言葉は、クリスマスに現れた神の栄光を指し示す、ひとつの予型になっています。クリスマスの救いの形がここには表れているのです。

「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子をみつけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」、羊飼いに現れた天使たちは、そのように語りました。そしてその言葉を信じてベツレヘムに行った羊飼いたちは、その言葉のとおりに救いの「しるし」を見たのです。

しかし、その場に居合わせた他の人々は、羊飼いたちが語る天使の話をただ不思議に思っただけでした。なぜならば、飼い葉桶の乳飲み子は光り輝きもせず、天使が舞い踊ることもなかったからです。乳飲み子を通して表れた神様の栄光は、羊飼い以外には見えなかったのです。

この飼い葉桶に寝かされた乳飲み子イエスの姿は、「しるし」とされました。それは何のしるしなのかと言いますと、「救い主」としての「主メシア」のしるしです。

では「主メシア」とは何か、ペトロはこう語りました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」つまり、「主メシア」とは、十字架に架けられて殺され、しかし神様によって主とされ、メシアとされた方ということです。つまり、布にくるまれて飼い葉桶に寝かされた乳飲み子イエスは、十字架のイエスを表す「しるし」だったのです。だからまた、乳飲み子イエスは輝かなかったのです。十字架のイエスが輝かなかったように。

十字架に架けられたイエスの姿は、わたしたち人間の目には悲惨の極みです。だからそこに神様の栄光を見いだすことなど、わたしたち人間には不可能なことです。しかし、人の目には見えない神様の栄光は、確かにその十字架に輝いていたのです。

「キリストはわたしたちのために御自身を献げられた」と、テトスの手紙は書いています。その言葉のとおり、キリストはわたしたちのためにこの世にやって来て、御自身を十字架に献げられました。それは、このわたしたちの現実の中に十字架を打ち立てて、見えない神様の栄光を輝かせるためだったのです。

だから今や、この世界の悲惨さの中に、イエス・キリストの十字架が立っているのです。そしてその十字架を通して、目には見えない神様の栄光がこの闇の世を、そしてわたしたち一人ひとりを照らしているのです。
           
(2022年12月25日 甲子園教会クリスマス礼拝説教より)