2022年11月 福音のメッセージ「いのちがいのちを解き放つ」

(聖書:出エジプト12:21-23、マルコ14:22-25、ヘブライ9:25-28)

 天地創造の時、神様は人間に命の息を吹きかけ、それによって人間ははじめて「生きるもの」となった、と創世記には書かれています。この場合の「生きるものとなった」とは、単に肉体的な命のことだけを意味するのではなくて、人間は霊的ないのちをも神様から授かって、神様との交わりのうちを生きるものとされた、ということです

 しかしながら、その人間は罪に堕ち、そのために霊的ないのち=神様との交わりを失いました。そして更には、罪に対する裁きとしての死を死なねばならない者となったのです。

 では、どのようにしたら人は肉の死から贖われ、さらには霊的ないのちを回復するのでしょうか。

 あの出エジプトの出来事において、モーセの指示通りに、その家の鴨居と柱に屠った羊の血を塗ったイスラエルの民は、エジプトの町を過ぎ越して行かれる神の裁きから免れました。しかし、その備えをしていなかったエジプト人たちは、初子をすべて失ったのです。

 この「過越」の救いにおいて起こったことは何だったのか、それは羊の血による肉体的な命の贖いです。命を贖うのは命である、そして命は血の中に宿る、この律法の言葉に従って、羊の血の中に宿る命がイスラエルの民の身代わりとなり、彼らは神様の裁きによる死を免れたのです。しかしこの羊の血は、イスラエルの民の霊的ないのちの贖いまではもたらしませんでした。

 では、一体誰が霊的ないのちをその罪から贖い出すのか、誰が人間と神様の交わりを回復させることが出来るのか、それはイエス・キリストだ、と新約聖書は証しするのです。

 最後の夜、過越の食事を弟子たちと共にしたイエスは、こう語りました。「『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。』」

 「神の国で新たに飲むその日まで」とは、わたしとあなたがたが、わたしと多くの人々が、やがて来る神の国において新たに杯から飲む日、その日が必ず来る、ということです。そうやって、神様とイエスと多くの人々が、共に杯を交わし、豊かな交わりを持つという、人間にとっての霊的ないのちの回復の日が必ずやって来る、それがイエス・キリストの血によって立てられた新しい救いの契約だったのです。

 ヘブライ人への手紙はこう書きます。「それでイエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を贖うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」

 キリストは、わたしたちと同じになった。わたしたちが味わっているこの人間の限界、その罪の現実。キリストもまた、あの十字架の死へと歩んで行く中で、そのような人間の罪の苦しみ、変わらない現実に悩み苦しむ人間の弱さ、その全てを味わった。しかしそれでもそのキリストは、神様とのつながりを決して失わなかった、というのです。それが、「キリストの血」に宿っているイエス・キリストの「霊的ないのち」です。

 そのようにして、イエス・キリストは、このわたしたちの弱さと罪において、わたしたちと同じ姿になることで、その血によって、わたしたちを霊的に神様に結び付けてくださっているのです。

 だからこの「キリストの血」によってのみ、わたしたちは罪から解き放たれて、もう一度神様との豊かな交わりを持つことが出来る、これが「キリストの血」によって、わたしたちに与えられている新しい救いの約束なのです。

 キリストの血による救い、その約束を信じ、希望をもって歩むわたしたちでありましょう。

(2022年10月2日 甲子園教会礼拝説教より)