(聖書:ヨシュア6:1-3、マタイ21:21-22、ヘブライ11:17-19)
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩は、斎藤宗次郎というクリスチャンがモデルであった、と言われています。賢治は同郷の斎藤宗次郎と親交があり、その影響を受けていたようです。
しかし、今回この詩を説教題に取り上げたのは、別にそれが斎藤宗次郎をモデルにした詩だからという訳ではなくて、説教の黙想をしているときに、この詩の一節「みんなにデクノボーとよばれ」が、ふと心に浮かんだからです。
つまり、信仰を持って生きるということは、愚直なことだ、ということです。信仰を持って生きるとは、人の目から見たら「デクノボー」に見えるような、「愚かなこと」なのです。
しかしとは言いながら、そこでわたしたちが間違ってはいけないのは、愚直に信じるということは、盲目的に信じるということは決して同じではない、というそのことです。
今日のマタイ福音書には、「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めているものは何でも得られる」と書いています。
だから、もしここの箇所だけ読むならば、「そうか、神様を信じていれば、なんでも祈り求めるものは手に入るということなのだな」、そう読めてしまいます。そうするとこの箇所は、なにがなんでもとにかく信じなさいという盲信を、人々に求めているような言葉になってしまうのです。
しかし、祈って求めればなんでも手に入る、というのならば、それは神様ではなくて、悪魔が人間に約束していることになってしまいます。なぜなら悪魔は、わたしを拝めば、この世の富も名誉も地位も全部お前にやろう、とイエスに言ったからです。
だから、わたしこれは、マタイさんのお手つき(書き過ぎ)だと思っているのです。でもここでマタイさんが本当に言いたかったことは、そんなことでは勿論ない訳です。そうではなくて、それくらい神様に信頼していなさい、イエス・キリストに信頼していなさい、そうするならば、あなたに対する神様の御心は必ずなるということ、これをマタイさんは言いたかったのです。つまり、イエスに対する信頼、神様への信頼をしっかり持て、ということが、この箇所の趣旨なのです。
しかしでは、神様に信頼するとは、一体どういうことなのでしょうか。
今日のヘブライ人への手紙には「信仰によって」という言葉がたくさん出て来ます。ここで言われる「信仰」という言葉は、ギリシア語では「ピスティス」です。そしてこの「ピスティス」には、「信仰」という意味の他に、「信頼」とか、「信実」とか、「誠実」とか、もっと言うならば「信」という意味があるのです。
ですから、この「信仰によって」というのは、勿論、神様を信じているアブラハムやイスラエルの人々の、神様に対する信仰、信頼、ということも意味はしているのですが、しかしそれ以上にそこには、神様の真実によって、神様の誠実さによって、という意味が込められているのです。
アブラハム自身が神様に信頼していますという以前に、神様御自身がアブラハムに対して誠実な方であった、だからこそアブラハムは、その信仰の歩みを続けることが出来た、イスラエルの民は、その民自身が信仰深かったから、というよりも、神様御自身がイスラエルに対して信実であった、だからイスラエルの民はその信仰の歩みを続けることが出来た、そういうことが、このヘブライ人への手紙では語られているのです。
そうやって、たとえわたしの神様に対する信仰が弱くもろいものであったとしても、その信頼が薄いものであったとしても、それでも神様は真実で、誠実な方であるから、決してわたしを見捨てられない、そういう「わたし」という人間に対する神様の、そしてイエス・キリストの信実さと誠実さというものをただ素直に受け取ること、そしてそれがどんな時であったとしてもこれを受け取り続けるということ、これが愚直な信仰というものであり、神様に対するまことの信頼なのです。
神様は、イエス・キリストは、わたしに対して信実であり、誠実である、だから決してわたしを見捨てられはしない、この「ピスティス」=信仰、信頼、誠実、信実によって歩むわたしたちでありましょう。
(2021年10月3日 甲子園教会礼拝 佐藤成美牧師 説教より)