(聖書:出エジプト6:5-9、マルコ13:12-13、ヘブライ11:23-29)
使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙の中で、このように語っています。「兄弟たちよ。わたしはすでに捕らえたとは思っていない。ただこの一事に努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与をえようと努めているのである。」
これは、パウロが復活について語っている言葉なのですが、その冒頭にはまたこのようにも書かれています。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
つまりパウロは、信仰の歩みを続ける者を当時すでにあった陸上競技の選手にたとえて、信仰者は「復活」という賞を得るために走るアスリートだ、と言っているわけです。
では、アスリートたる信仰者は、一体どのようにして自分を鍛えるのでしょうか。
今日のヘブライ人への手紙には、こう書いてあります。「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。」
イエス・キリストが生まれたのは、モーセより何前年も後のことです。ところが、このヘブライ人への手紙は、モーセ自身がその身に引き受けて行った苦しみは、「キリストのゆえ」であった、と書くのです。なぜならば、この著者にとって、イエス・キリストの救いの働きは、過去も将来も、すべての時に及んでいるものだからです。
だからまたこの著者は、モーセは「与えられた報いに目を向けていた」と書いて、モーセが「報い」としてのキリストの復活に目を向けながら歩んでいたのだ、とも書くのです。
このように信仰者とは、自分の出会う苦しみを「キリストの苦しみに与っているもの」として受け取ることで鍛えられて、キリストの復活にも与る者となるのだ、とこの手紙は語っているのです。
しかしでは、そのようにして信仰者が目指しているところの「復活」とは何なのでしょうか。
クリスチャンの詩人八木重吉は、「復活」についてこのような詩を書きました。
「きりすと われによみがえれば、よみがえりにあたいするもの すべていのちをふきかえしゆくなり、うらぶれはてしわれなりしかど あたいなき すぎこしかたにはあらじとおもう」
愛する妻と幼い二人のこどもを残して、若くして死んで行く我が身を、重吉は「うらぶれはてしわれなりしかど」と詠います。でも、そんな自分であっても「キリストがわたしのうちによみがえるならば」、その自分の人生も虚しく値なきものにはならないだろう、その人生において「よみがえりに値するもの」はすべて、その命をふきかえすだろう、愛する妻やこどもたちと過ごしたその輝ける喜びの時は、大好きな詩を書いて心を躍らせたその時は、そして悲しみの時や苦しみの時でさえも、すべての時は意味を持って永遠の時の中に輝き続けるだろう、というのです。
このように、「復活」とは意味を与えるものなのです。もし「復活」がなければ、イエスが語ったすべての言葉も、すべての業も、そしてイエスの味わったすべての苦しみも悲しみも、その全てが無意味であったでしょう。しかし確かにイエスは、神様によって死から復活させられました。そして、イエスの人生のすべての出来事に、真の意味が与えられたのです。
だから、イエス・キリストを信じる者もまた、復活するのです。そして、わたしたちの人生にも、神様による真の意味が与えられるのです。神様の鍛錬を受けながら、「復活」を目指してひたすら走るわたしたちでありましょう。
(2021年11月14日 甲子園教会礼拝 佐藤成美牧師 説教より)