(聖書:出エジプト14:15-18、マルコ1:9-11、Ⅰヨハネ5:6)
神学者のポール・ティリッヒは、信仰を「問いと答え」と考えました。確かにその通りであって、わたしたちにとって信仰の歩みとは問いの連続、まさに「問い、問い、問い」の歩みなのです。
そして、そのことを何よりもわたしたちに示しているのが、イエスという方の生涯です。
今日のマルコ福音書のお話は、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けるというお話です。
「洗礼」とは、水の中をくぐることで、古い自分に死んで、神様から与えられた新しい命、新しい自分に生きることを意味しています。そしてイエスは、そのような洗礼を受けたのです。
その理由ははっきりとは分かりませんが、恐らくそれは、イエスがガリラヤ民衆の苦しみ、悩みをつぶさに見ていたことと大きく関係していたものと思われます。
ところが、このバプテスマのヨハネによる洗礼において、イエス自身がとんでもない体験をすることになるのです。それが、神の霊が鳩のように自分に降って来て、「あなたはわたしの愛する子」という神の声を聞くという強烈な神体験でした。
そしてこの神体験を根柢において、イエスはバプテスマのヨハネとは別な独自の歩みを始めて行くことになります。わたしに示されている神様の愛を、苦しみあえいで生きているガリラヤの民衆に伝えよう、その思いがイエスの宣教の始まりとなったのです。
では、そのような神体験に基づいて始められたイエスの宣教の歩みは、それで順風漫歩に進んだのかというと、決してそうではありませんでした。その歩みは、悩みと迷いの連続だったのです。
そのような悩みと迷いに満ちたイエスの宣教の生涯を、短い言葉で見事に表しているのが、今日のヨハネの手紙の言葉です。「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血によって来られたのです。」
この「水」とは、イエスの洗礼を表すものです。つまり、イエスがその洗礼において強烈な神体験をした、ということであり、だからこれはいわば、イエスにとっての確信の部分のことです。
ところがそれだけではなくて、イエスは「血」も通って来た方だ、というのです。この「血」とは、イエスの十字架の死を表しています。
マルコ福音書によれば、イエスはあの十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。そして、ユダヤ教の神学者ピンハス・ラピーデは、このイエスの叫びの元となっている詩編22篇の言葉は本来、「わが神、わが神、なんのためにわたしをお見捨てになったのですか」と訳すべきだと言っているのです。つまりイエスは、自分が何のために十字架で死ななければならないのか、その意味が分からない、という問いを神様に向かって発したのだ、というのです。
そのようにしてイエスは神様の愛を確信しながらも、しかしその宣教の歩みにおいて、いつも神様に問いながら歩み、ついにその十字架の死を前にして、「なんのためにわたしはここで死ななければならないのですか」という問いを発して死んで行ったのです。
ではそのようなイエスの問いは答えられなかったのでしょうか。そうではありません。神様は問いを発しながら死んだイエスを、三日目によみがえらされたのです。それによって神様は、御自分の愛が、確かに十字架のうえでもイエスを捕え続けていたことを証しされたのです。
このようにイエスは神様に問いつつ、しかし神様の愛に捕らえながらその生涯を歩んだのです。最初にお話したように、わたしたちの信仰の歩みもまた神様への問いの連続です。しかし、十字架と復活のイエス・キリストが共に歩んでくださる限り、わたしたちの歩みは「トイ、トイ、トイ」(=ドイツ語で「大丈夫」というおまじないの言葉)なのです。
この新しい一年も、神様に問いつつ、キリストと共に歩んで行くわたしたちでありましょう。
(2022年1月9日 甲子園教会礼拝 佐藤成美牧師 説教より)