2022年2月 神様のことを知りたいあなたへ(9)「イエスの十字架、その意味⑤」

 イザヤ書五三章を中心とする旧約聖書の言葉によって、弟子たちは師であるイエスの死が、「わたしたち」の罪を償うための贖罪死であったのだ、と解釈しました。そしてそれだけに留まらず、旧約聖書そのものがイエスの十字架の死と復活を預言する言葉であると信じるようになったのです。

 そのようなイエスの十字架の死の解釈をさらに深めたのが、初代教会の時代に活躍したパウロです。

 キリスト教徒となる前のパウロは、ユダヤ教のファリサイ派の一員として、神の掟である律法を熱心に守ることに努めていました。そのようにしてパウロは、自分で自分を神の目に「正しい者」とすることに努めていたのです。

 だからまたパウロは、律法を守ることをしない異邦人(※ユダヤ人以外の民族)であっても神様に救われる、と説いたキリスト教に激しい批判を浴びせ、その迫害に積極的に加わったのです。
 
 しかしそのパウロが、キリスト教徒を迫害するために向かったダマスコの途上で、復活のイエス・キリストと出会います。そして彼は回心するのです。

 迫害者から宣教者へと転じたパウロはその後、当時キリスト教の総本山であったエルサレム教会を訪れ、そこでイエスの直弟子達から「贖罪死」としてのイエスの十字架と復活の解釈を受け取ります。そして彼はそれを、かつての自分の歩みと重ねて理解するようになるのです。

 パウロは、そのコリントの信徒への手紙Ⅱの中で、このように書いています。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」

 このようにパウロは、イエスの十字架の死と復活を、「人の弱さと神の力の現れ」と解釈したのです。

 かつてファリサイ派のユダヤ教徒としてキリスト教徒を迫害してきた自分が陥った結末、それは自らの「正しさ」を誇り、「神の子」たるイエス・キリスト、そしてそのキリストを信じる者たちを「死」へと追いやったという現実でした。

 そのようにして、自分の力を誇る者が行き着く先が、神の子すらも殺そうとする「死」であり「滅び」であることを、パウロはその回心によって知らされたのです。

 ですからキリストの使徒となったパウロは、もはや自分の力を誇ろうとはしませんでした。むしろ自分の弱さの中にこそ、あのイエスの十字架の死と復活に現れた神の力が宿るのだ、と信じたのです。

 「それで、思い上がらないように、わたしの身に一つのとげ(※恐らくは癲癇のことか?)が与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:7-10)

 「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(Ⅱコリント4:7-11)

 十字架に架かって死んだ弱いイエスに現れた復活の神の力、その神の力が、この弱いわたしたちの中にも働く、これがパウロの行き着いたイエス・キリストの十字架の死と復活の理解でした。

 これまで数回に亘って、イエス・キリストの十字架の死と復活についての幾つかの解釈を見て来ました。

 イエスの直弟子やパウロといった初代教会の人たちは、自分たちの体験と旧約聖書の言葉を通して、イエスの十字架の死と復活を自分達なりに解釈し、その意味をとらえようとしたのです。

 では今、それを聖書で読むわたしたちは、イエスの十字架と復活の意味を、どのように受け取り歩もうとするのでしょうか。それが、人の力を信じて疑わないこの時代に生きるわたしたちの課題なのです。

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)