2022年3月 福音のメッセージ「神様なんかこわくない」

(聖書:箴言2:1-5、マルコ4:3-9、Ⅰコリント2:6,8)

 知恵や知識は人を傲慢にする、聖書はそのことを繰り返し語っています。

 パウロが建てたコリント教会でも、自分たちの持つ「神の知恵」を誇る人々が現れました。この人たちは、自分が完全な信仰を持つクリスチャンであることを誇り、罪から解放された者として好き放題に振る舞いました。そして、他の教会の人たちを「まだ霊的な完成に達していない」と見下して、教会の中に分裂を生み出したのです。

 このように、神様についての知恵を持っていると自負した人間もまた傲慢になったということを、聖書は証ししているのです。では、神様についてのまことの知恵や知識を持つとはどのようなことなのでしょうか。今日の箴言の言葉に目を向けてみましょう。

 「わが子よ、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして、知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら…あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。」

 箴言は、真の知恵や知識を熱心に捜し求めるならば、その人は遂に神様を畏れることを悟り、神を知ることに達するだろう、と語ります。つまり、神様についてのまことの知恵や知識を持つとは、神様を畏れることを知ることなのです。

 神様は、わたしたち人間の力も思いもはるかに超えた方であって、それをわたしたちはどうすることも出来ない、その思いを知ることも出来ないし、その力を人間の願いによって操ることも出来ない、人間に出来ることはただ神様を畏れることだけだ、ということです。神様と人間との間には越えることが出来ない「絶対的な差異」があるのです。

 しかし、もしそうであるとするならば、どうやって人間は神様のことを知ることが出来るのでしょうか。今日のイエスの譬え話は、まさにその点について答えるためのものです。

 ここでイエスが語りたかったのは、神様が「神の国」の種を蒔き、それを育てられるのだ、ということです。つまり、わたしたち人間が神様のことを知ったり、これを信じたり出来るのは、すべて神様の側の働きによる、ということです。人間が努力して神様の知識を得、それを育てて行くというのではなく、神様についての知恵も知識も、全く人間の手によらず、神様の側がそれを与え、育ててくださる、だからこの神様に信頼していなさい、とイエスは言うのです。

 そして、今日のコリントの信徒への手紙においてパウロは、その神様によって「蒔かれた種」というのが、実は十字架のイエス・キリストなのだ、と語っているのです。

 十字架のイエスとは何か、それは人間の知恵から見れば、つまずきと愚かさのしるしです。しかし神様は、人間の目にもっとも卑しく、愚かに映る、その十字架のイエスに御自分を表されたのです。そのようにして神様は、今やあの十字架のイエス・キリストを通して、信仰においても、何においても、弱く愚かなこの「わたし」の中に宿られたのです。そしてこれが、人間の知恵では決して理解出来ない神様の知恵というものです。

 この神様の知恵によるならば、わたしたちが自分の信仰のだめさを、弱さを、感じれば感じるほどに、十字架のイエスを通して神様はわたしの近くあるということです。わたしたちの今いるところ、皆さんの家庭の中に、皆さんの弱さの只中に、イエスの十字架は立っています。そしてそこに神様がおられるのです。

 だからわたしたちは、上を目指さして進もうとするのではなく、むしろ恐れや不安を抱えながら、その弱い「わたし」と共に十字架のイエス・キリストがいてくださる、そのことに神様の恵みを感じていたいのです。
         
(2022年2月13日 甲子園教会礼拝説教より)