(聖書:イザヤ54:47、マルコ10:13-16、エフェソ5:22-25)
わたしたち人間は、今自分が生きている時代状況、その社会的、思想的な背景というものを飛び越えて、全く無前提に事柄を理解して、それを描くことはできません。どんなに優れた学者であっても芸術家であっても、その時代時代の状況の、その枠組みの中でしか物事を理解し、考え、解釈し、表現することしか出来ないのです。
そしてそのことは、聖書にもそのまま当てはまります。聖書に出て来る様々なお話や表現に、その時代特有の表現や解釈がどうしても出て来るのです。
今日のイザヤ書の言葉では、国を滅ぼされ捕囚民とされたイスラエルの民が「夫に捨てられ、やもめとなった女性」、そしてその女性の夫が「神様」の立場で表現されています。
こういう表現に何が表れているかというと、だからそれは、この言葉が語られた時代の男性理解、女性理解なのです。つまり、この言葉が語られた当時、成人男性はその家庭において、「神」や「キリスト」と表現されてもおかしくない程の権威を与えられていました。そして女性は、その男性の所有物と見なされていたのです。そのような男性中心の父権社会の姿というのが、こういう聖書の言葉にそのまま映し出されているわけです。
ではイエスの言葉はどうでしょうか。今日のお話では、イエスのもとにこどもを連れて来たある人たちを、イエスの弟子たちが叱った、というのです。
なぜ叱ったのかというと、その時代、「こども」は人間扱いされていなかったからです。だから、ここは「こども」のような者を連れて来るところではない、と弟子たちは思ったわけです。しかし、そのような弟子たちの対応にイエスは憤りました。
そしてこのように語ります。「こどもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」このようにイエスはここで、こどもは神の国に入ることが出来る、と明言されます。
そして更にこう言います。「はっきり言っておく。こどものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」この言葉の別の翻訳は、「神の国を、こどもを受け入れるようにして受け入れるのでない者は、そこに入ることはできない」となっていて、つまりイエスは、こどもを受け入れない者は、神の国には入れないのだ、とここで言われたということです。
これは、「イエスと共に歩んでいる自分たちは神の国に入ることが出来る」と思っていた弟子たちにとっては、衝撃の言葉だったに違いありません。このようにして、ここで弟子たちとこどもの立場が逆転するのです。わたしたち人間の視点が逆転させられるのです。
つまりそれは何かというと、それは物事をとらえる視点の問題なのです。イエスは、成人男性である者を神様と同列において、顧みられていない他の人を、神様のように上の立場から憐れみ、助け、愛するように、というような、そんな物の言い方を決してしませんでした。わたしたち人間を神様の側へ引き上げるような見方をイエスは決してしなかったのです
そうやってイエスという方は、徹底的にわたしたち人間の傲慢さを否定して行きます。わたしたち人間に神様とのつながりが何かあるなどと夢にも思うな、そうやってわたしたち人間と神様のつながりを、イエスは徹底的に切って行くのです。そして、そこにわたしは、イエスという方の、時代を超え出た神様を映し出す視点を感じるのです。
「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。」これが、イエスの見ているわたしたちの姿です。
でもだからこそイエスは、「キリスト」として、救いに値しないわたしたちのもとにやって来られたのです。
神の眼差しに含まれた厳しさを思いながら、それ故に、そのわたしたちに与えられている無条件の救いの恵みを、今一度思い起こしたいのです。
(2022年8月21日 甲子園教会 佐藤成美牧師礼拝説教より)