2022年10月 聖書黙想(44)「悪より救い出したまえ」

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。…わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。」(ヨハネ福音書15章1-2、6節) 

 「実を結ばない実は…取り除かれる」、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる」と言われているように、イエスにつながっていない人は、「取り除かれ」「捨てられ」「枯れる」というのです。

 なぜイエスはこんなひどい言葉を語ったのでしょうか。イエスにつながっていなければ、なぜこんな目に遭うのでしょうか。

 これらの言葉を読みながら、わたしの心に浮かんだのは、つい先日、T市で起こった保険金殺人事件のことでした。

 事件が起こった当初からすでにマスコミ等が報道していたように、この男性は関西のミッション系の大学出身で、更に中学ではタッチフットボール、高校ではアメリカンフットボールに打ち込んでいました。高校時代には全日本にも選ばれたほどの花形QB(クォーターバック、司令塔)だったのです。

 同窓のひとりとして、また中高ともにこの男性と同じクラブに所属していた者として、後輩であるこの男性が起こした事件と、その後のこの男性の牢屋内での自死の出来事に少なからずショックを受けました。

 しかしまたそれと同時に、この男性の人生の終わり方に、妙に納得したような思いもしたのです。

 学校での成績もよく、スポーツでも花形エースとして活躍したこの男性が、社会人になっていつしか欲におぼれ、遂にお金に行き詰まり人の命まで殺めた、そして最後には自死に至った、一体彼の人生に何が起きたのか、何が彼に道を誤らせたのか、です。

 そのようなことを考える時に、まず間違いなく言えるであろうことは、この男性がいくら話し上手で、人との交流関係を表面的には持っているように見えたとしても、実は孤独であり、孤立していた、ということです。

 誰の心の中にも「悪いもの」があります。そしてこの「悪いもの」に心を奪われて行く時に、人は欲望や嫉妬や憎しみや怒りに捕らわれて行き、それが周りのものを見えなくさせて行きます。そして、つのりつのったその思いは、ますます人を孤独へと追い込んで行くのです。

 この辺りの人間心理を実に巧みに描いている映画として、いつもわたしが思い出すのが『スターウォーズⅢ』です。

 善人であり、正義のヒーローであった主人公は、その様々な人間関係の中で、恐れや疑いや不安に捕らわれて行き、それが次第に嫉妬や怒りへと変わって行きます。そのようにして彼は、妻や親友にも心を閉ざすようになり、遂にはその心のすべてを悪に奪われ、悪の手先に成り下がるのです。

 観ていて悲しくなるような話なのですが、しかしそのような「悪いもの」へと取り込まれて行く人間の姿が実にリアルで、自分の中にもそうなる要素が確かにあるのだと、いつもその映画を観るたびに思わされるのです。

 そして、自分の中にある「悪いもの」に取り込まれ、周囲の人々との関係を断ち切って孤独になった人間を待ち受けているのは、破滅でしかありません。

 イエスを裏切った弟子のユダが最後には首をくくって死んだのだと、マタイ福音書は記します。信頼する者とのつながりを断ち切り、悪にとらわれてしまった者の末路が、そこにもはっきりと描かれています。

 だからこそイエスは、「実を結ばない実は…取り除かれる」、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる」という厳しい言葉を語られたのです。

 「イエスにつながっているように」とはつまり、「イエスの愛につながっているように」ということです。そしてイエスの愛につながっているとは、その愛を中心として、自分が神様や他者との交わりを持ち続けて行くということです。

 だからイエスはこう言われるのです。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。…人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。…父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」 (ヨハネ福音書15章4、5、9節)

 あの天地創造の時に神様は、最初の人であるアダムに向かって、「人が独りでいるのは良くない」と言われました。

 人とはその最初から、独りで生きることはできないものとして造られているのです。

 人とつながり、人と共に生きようとすること、そうやって愛にとどまっていること、それがわたしたちを「悪いもの」から救い出すのです。  

(甲子園教会牧師・むこがわ幼稚園園長 佐藤成美)