(聖書:ホセア11:8-9、マルコ12:28-31、Ⅰコリント13:4-7)
神の愛とはいったいどのようなものでしょうか。今日のホセア書では、その神様の愛がかなり人間的に、感情的な側面から描かれています。
預言者ホセアは、神殿娼婦であったゴメルという女性を妻に迎えるように、と命じられます。しかしゴメルは、ホセアとの間にこどもを産んだ後も他の男との姦淫をやめることはありません。
その愛の苦悩に立たされたホセアに向かって神様は、わたしもあなたと同じ苦しみを味わっている、と語ります。神様によってエジプトから導き出され、「神の民」とされたイスラエルは、しかしカナンの地においてその地にあった神々を拝み始めます。そして神様は、自分を捨てて他の神々と「淫行」を働くイスラエルの民の故に、苦悩するのです。
しかしそれでも神様は、こう語ります。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。…わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。」神様はイスラエルを、愛しているから捨てられないのです。
このような苦悩する神様の誠実な愛を、ヘブライ語で「ヘセド」と言います。そしてそのような「ヘセド」の愛が、具体的に形をもって現れて来たのが、新約聖書におけるあのイエス・キリストだと言われるのです。
今日のマルコ福音書には、律法の中で最も大切な掟は何かと問われたイエスが、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」という二つの掟をあげたという有名なお話が出て来ます。
そうやってイエスは、ここで見事にあの多岐にわたる律法をたった二つにまとめてみせました。ある意味これは素晴らしいことです。だからマルコ福音書は、イエスの語ったその素晴らしい愛の掟を福音書の読者が知って、これを守って生きるようになるために書かれたものだ、ということになるのでしょうか。しかし福音書を読んでいると、どうもそうではないように思えて来るのです。
それはなぜかと言いますと、その福音書に出て来る肝心のイエスの弟子たちが、そういうイエスの教えを聞いて、これに感化されて、皆その教えに従う者になった、という話には全然なっていないからです。
むしろ福音書が描くのは、イエスの素晴らしい教えを聞きながらも、何かある度ごとにイエスに叱られ、それでもイエスに助けられ、救われるダメな弟子たちの姿です。そして遂にはその弟子たちは、イエスを見捨てて逃げてしまうのです。
しかしそのような弟子たちを、それでもイエスは愛そうとします。そうやってイエスは、自分を見捨てて逃げて行く弟子たちの罪を背負って、たった一人で十字架に死んで行くのです。
このように福音書という書物は、イエスの教えを人々に示すために書かれたというよりは、愛の故に苦しみ悩みながら、それでも弟子や人々を愛そうとしたイエスの姿を人々に伝えるために書かれたものなのです。
だからまた福音書は、心と精神と思いと力を尽くして神様を愛し、隣人を自分のように愛することが出来たのは、あの十字架のイエス・キリストだけだったということを、わたしたちに示しているのです。律法の掟を成就し、愛を完成したのは、ただイエス・キリストだけだったのです。
だからパウロもまた「あなたがたはもっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい」と勧めるのです。愛とは「賜物」、つまり「贈り物」であって、人間が努力して獲得するものではありません。そしてその愛の贈り手は、愛の完成者であり、愛そのものであるイエス・キリストなのです。
わたしたちもこのイエスの愛を感謝して受け取り、まるで上着を纏うように、その愛を身に纏いながら、日々の歩みを続けて行きましょう。
(2022年9月11日 甲子園教会礼拝説教より)